俺の名前は二千二郎(にせんとんでじろう)、本名・小八裂比呂斗(こやつざき・ひろと)だ。年は15才。
朝、俺はいつもの時間いつもの部屋で目を覚ました。中流家庭の8畳の自室、ベッドの上。
今日は平日。まずは顔を洗って、それからメシ。俺は眠い目をこすって、体を起こした。あくびを一発。ん? いい匂いがする。だし巻き玉子だ!
おふくろのだし巻き玉子はほっぺた蕩ける甘さとうまさ。食べるときにリグニンスルホン酸誘導体を混ぜてほっぺたを凝固しないと! ってなもんだ(このジョークを言っても誰も笑わないが、飾り棚にちょこんと居座るロシアの民芸品マトリョーシカはいつも笑顔で見守ってくれている)。
さて、とベッドから降りようとしたときに初めて気が付いた。ベッドのかたわらに美少女が直立不動でたたずんでいることに。
「あ……」
全く知らない人物だった。だがその美しさと俺を見下ろす瞳の輝きに見とれてしまい、俺は口をぽかんと開けたまま驚くタイミングの逃してしまった。それにしても……
俺は目をこらす。
なんという美しさだろう。窓から差し込む朝日よりもまぶしい。
彼女の長い黒髪が光をあびて艶めく。その髪は窓の閉まった部屋の静かな空気の流れにすら、さらさらと揺れるほど柔らかだ。長い前髪は、横にわけて耳にかけている。左に4、右に6の割合だ。正確には左に3.63、右に6.37の割合で、右の6.37割の前髪は落ちないようにヘアピンで留めてある。
俺は目をこらす。
そのヘアピンは楽器のハープを縦に引き伸ばしたような形の丸みのある三角形をしており、一番長い辺が他の2辺に比べて少しだけ細く、色も透き通った白をしている。他の部分は鈍いシルバーで、細かなラメがちりばめられており、若い女性が付けても違和感のない、良い意味での安っぽさと適度な高級感を両立させるのに一役買っていた。
目をこらす。
トップからサイドにかけての髪は、ストレートにすとんと落ちて、量は少なくないのにその整った頭の形が見てとてるほどしっとりしていた。長さは70センチほどで、先端から20センチほどがウェーブしており、柔らかく揺れるそのウェーブの振幅は禅の修業をしている坊主の脳波グラフのようにおだやかだ。そしてその波を見ていると、木々の枝葉の隙間から月明かりが降り注ぐ神秘的な森に迷い込んだ錯覚を覚えそうになるし、はたまた、極地に見る荘厳なオーロラのようにも見え、その土地の気温がイメージされ思わず身震いしてしまいそうになるのならないの。
さらに目をこらす。
リア(後ろ)の髪はこちらからは見えないが、俺に透視能力があると仮定すると、その髪は同じくストレートで滑らか、途中からのウェーブ部分の振幅は他の部分より少し大きめかつ不規則に遊んであり、その髪の振幅を音に変換すると、美しいハープの譜面になっていて、そこから紡がれるメロディはこの平凡な部屋を花咲き誇る草原に変えるだろう。その草原ではリスが寄ってきて落花生の殻で作ったマラカスをふれば、うさぎがぴょんぴょんダンスを踊り、猿がシンバルを持ってきて、ジャン! と鳴らせばプレーリードッグがぴょこぴょこ顔を出してソプラノのコーラス。おや? 向こうの木からクマくんが仲間に入りたそうにこちらを見てるよ。来なよ! 唄おうよ! ヤマネコがヒゲを弦に使ったギターをかきならすと、オオカミが差し入れのビッグカツを持って来る。ビッグカツばかりでは喉が渇くなあ、という歌を唄えば、ペリカンたちが水の差し入れ。歌って、食べて、飲んで、楽しや楽し! ほれチップだ!――というメロディを秘めた髪だ。
もっと目をこらす。
顔はとても均整がとれている。そしてそのすべらかな白に近い色の肌は、サテンのような滑らかさが見て取れる。彼女の肌のようなサテン生地があったとして、きっとそのサテンは、インドの王族がその跡継ぎとなる嫡子の、次期王としての資質を試すために課す試練の褒美として与えられるような、そんな希少さと美しさだ。それを得るための試練の旅はきっと厳しいものだろう。だからその旅には頼もしいみちづれが必要だが、王の嫡子・ラハマーンはやんちゃで世話役の侍従の目を盗んでは宮殿を抜け出し、町に仲間を作っているはずだから大丈夫。「吐いたツバ飲まんとけよ!」第一の仲間は、ふっかけのハリ。「俺を買いたいって? 消費税は、千パーセントだぜ!」第二の仲間、土地ころが師のジュメル。「俵万智は俺の嫁!」第三の仲間、菜食主義のテーガ。ラハマーンは三人の仲間を連れて旅に出る。山を越え、川を越え、砂漠を越える。とちゅう賊に襲われることもあるだろう。そんなときは、ふっかけのハリの登場だ! 変形ターバンで敵を威嚇し、天竺スペシャルを決めれば、やつら三日はカレーが食えないぞ。水中戦は土地ころが師のジュメルが強い! 水中火山を操って、間欠泉の熱流スネーク・カモン! 敵はのぼせあがるぞ。菜食主義のテーガは一揆に巻き込まれたときのためにいる! 野菜と農民への感謝の気持ちはきっと農民達の怒りを沈め、領主も心打たれて年貢を勉強してくれるはずだ。そんなこんなで旅は続き、なんやかんやで仲間達は倒れて、ラハマーンはひとりきり。苦労の末に手にした幻のサテン生地は、仲間の墓に手向けよう。だってそのサテンは魂をも包み込み安らかに浄化するから。――というような質感の肌だった。
俺は目をこらす。
目は――ちから強く開かれた真っ直ぐな目だ。眉はゆるやかなカーブを描きながら、固い意志としたたかさをかもし出して、その目の強さを引き立てている。そして薄くうるんで輝く、その黒瞳はまるで光りの届かぬ深海のように深い色をしていた。いや、その色の深さは深海のさらに深くまで開いた海溝の底にさらに開いた大きな深みのような、覗き込めばどこまでも沈んで行ってしまいそうな、おそろしさすら感じさる深い色だ。そのおそろしさは、地域の恐怖スポットを特集する雑誌のライターが俺だとすれば、きっと1位に挙げるだろう、というそれ程であった。だが記事を出版物として正式に発表するとなれば、改めて取材しなおさなければならないだろうから、俺はカメラマンと取材旅行に出かけるのだ。彼女の瞳を深海の底の底に例えるのなら、実際に深海の底の底を見てくるというのがライターの矜持。カメラマン! 二の足を踏んでいるんじゃねえ! レッツらゴーだ! 世界最深の海は西太平洋に位置するマリアナ海溝。さあ、潜るぞ! 何? 素潜りじゃだめなのか。根性には自信があるぞ。テニス部の部長として部をひっぱり、私自信も全国大会で上位入賞することができた、その持ち前の粘り強さで素潜りの際もがんばるが、だめなのか。そんなとき潜水艇をチャーターするお金の無い俺は、臨機応変で柔軟な思考で、まずエンジニアの勉強をすることを選ぶのだ。試験は映画『ザッツ・カンニング』を見れば一発である。だが試験には落ち、俺は、そこまでしても、たどりつけないのが超深海というもの、ということを悟る。だから俺はライターの矜持をひとまずねじ伏せて、見てもいない深海を例にとった記事を書くだろう。そして定年してから、公園のブランコに揺られながら思うのだ。あのときは妥協しちまったなあ、と。そうして俺は深海ではない別の深みから一生抜け出せなくなってしまうのだ。でも退職金はたっぷりもらえたし、娘も嫁いで家を出た。それに妻は、社交ダンス教室が何でそんなに忙しいのかわからないが、家にいないことが多いから、何十年も前のゲームをプレイして余生を過ごそう。そして俺は『ランブルローズXX』にハマるのだ。それもとんでもなく。ハマった深さは、あるいは深海の底の底よりも深いのかも知れない。こんなに時が過ぎてから、本物の深さを実際に見ることになるとは……遅かったなあ、と俺は自嘲気味に笑うだろう。――という色の瞳だった。
まだ目をこらす。
その鼻梁は――すっと真っ直ぐ通った形で、先端はつんと尖っており、小鼻は控えめ。その素晴らしく美しい造形の鼻梁は、公園にこの鼻のような滑り台があったら、親御さんも安心して子どもを遊ばせることができるに違いない、という程だ。だからこの滑り台があれば公園のまわりの地域の親達のつながりは密なものになる。だって子どもが安全に遊べる遊具があれば、ママ達は心置きなく世間話に花を咲かせられるから。ママが話に夢中でかまってくれなくたって、子どもはキレイな鼻の滑り台が楽しいから寂しさを感じることはないだろう。お友達といっしょに、ボクのほうが速くすべれるぞ! とか、アタシは滑ったあとジャンプして着地できるわ! とか、競い合うように遊ぶのだ。エスカレートして、立って滑ったりはだしになる子どもも出てくるだろうけど、大丈夫。遊具にして、触れれば包み込まれるような感触を持ち適度な潤いを常にたたえつつ、さらりと滑らか。そんな滑り台だから安全そのもの。子ども達はみんな夢中で、だから近所のガキ大将が占領しようとするのも仕方のないこと。ガキ大将は大人も手を焼くごんたくれ達を率いて、乗り込んでくるのだ。前から遊んでいた子ども達は、みんな仲良しでケンカは大嫌い。ガキ大将達が来るとクモの子を散らすように逃げ出してしまう。でも恐くて逃げるわけじゃない。その子ども達は知っている。キレイな鼻の滑り台の優しい力を。その造形の美しさ、よりそって眠ってしまいたくなるような肌触り、滑り心地――ガキ大将達は我が物顔で遊びながら気づくだろう。この滑り台に、たたいたりけったり、そういう乱暴なことは似合わない。ここは楽しく遊ぶための場所なのだと。ガキ大将はそこでうでっぷしと人数にものをいわせることよりも、みんなの仲間に入れてと勇気を出してお願いすることのほうがずっとカッコイイと思うだろう。ごめんなさい。ガキ大将は前からこの滑り台を使っていた子ども達に謝る。みんなはもちろん笑って許すのだ。ガキ大将の舎弟達も、頭をさげるボスにがっかりなんてしない。むしろ、あんたについていくぜ、と尊敬の念を強めるだろう。楽しくってついつい暗くなるまで遊んでしまうと、ガキ大将の親がやってきて、早くかえってきなさい! と叱りつけるけど、本当はみんなと仲良く遊ぶどらむすこの姿がうれしいのだ。この公園にはいつも笑顔の子ども達とその親が集まって、みんな仲良しだし、新しくやってくる親子もすぐに打ち解けられる。キレイな鼻の滑り台は、いつまでもいつまでも笑い声につつまれながら人々を暖かく見守り続けるだろう。――という鼻だった。
ただただ見とれて目をこらす。
唇は――水々しく潤んでいて、ヒルのなまめかしさとピンクサファイアの煌びやかさ、そして桜の花の落ち着いた美しさもあった。ふっくらと厚みがあり、ふくらみのある中心から口角へと描かれるそのラインは、極上のソファを思わせ、俺が小人だとして、おそらく座れば一生立ち上がることができないだろう。俺が家具のバイヤーなら、この唇のソファを見つけたら、お金をいくら積み上げてでも買い付けるに違いない。だってこれ以上の魔性の魅力を持つソファには一生出会うわけはないのだから。俺はすぐさま所有者のおやじと交渉を開始するのだ。おっちゃん、なんぼや! もうちょいまけてえな! チュウチュウタコカイナっとこれでどや! そらあんた殺生やで!……だめだ。あのおやじも唇のソファの価値に気付いてやがる。そりゃそうだ。それほど人を惹きつける力を持ったソファなのだから金でどうにかなるわけはない。逆の立場なら、同じようにゆずらないのは容易に想像が付く。俺は途方に暮れるだろう。だがそんな俺に天啓が降りてくる。あのおやじは寝るときはきっとあのソファで眠っているはず。ならば……。俺はもう一度所有者のおやじのところへ行く。そしてギターをかきならし、歌うのだ。曲はシャ乱Qで「シングルベッド」。“♪シ〜ン〜グ〜ルゥ〜ベッエエ〜ッドでゆぅめと おほまえ〜抱いてたっころぉ〜!”おやじが涙に暮れるだろう(ちなみにおやじは鬼のような顔のおやじだ)。え? シングルベッドで寝るからソファはくれるって!? ラッキー、もうけー! こんなに上手くいくとは思わなかった。俺は首尾よくソファの所有権を得るのだ。だがソファを持って帰ろうとしたときに気づく。こんな大きいもの俺の《おびんずる号》(自転車)では運べないことに。そこでバイヤーで友人のさえずり入道に連絡、軽トラをまわしてもらうのだが、それはあやまちだと気づくのは入道が来た後。さえずり入道とてバイヤーのはしくれ、唇のソファの価値に気付かぬはずはないのだから、当然の成り行きで俺達はとっくみ合いのケンカをはじめなければならないだろう。お互いの肩を掴んで顔面を殴りあい、押し倒し倒されて激しく上下入れ替わりながら土手という土手を転がり落ちて周る俺達。荒川土手、品川土手。信濃川土手は長丁場になったなあ。他にもいろんな土手で転がるのだ。土手巡りも、俺と入道の体力の限界が訪れたので一級河川を三十数えたところで終了する。とたんにふたりそろって嘔吐。転がりまくった影響だ。「おえべろえべろえええぇぇぇぇッ!」俺達は同時に嗚咽を上げたが、それがなんだかおかしくってふたりして「ぷっ」と噴き出して笑う。ついでに残ゲロもぷっと出る。いい汗を流し胸のわだかまりを吐き出した俺達は、当然のごとく銭湯に向うのだ。裸の付き合いは、お金や仕事の確執を忘れさせる。風呂上がりにはもちろん脱衣所でコーヒー牛乳の早飲み競争だ。俺と入道は腰に手を当てぐびぐびやる。さえずり入道は入道なだけあって早く、やつが勝者となって飛びあがって喜ぶと、入道の腰に巻いたタオルがはらりと落ちる。俺は、入道のくせに意外と小さいアソコを見て、ぷぷぷと笑う。そんないい年こいてガキみたいな俺達を見て、常連のじいさんも笑う。親子も笑えば、いつもはこわいイレズミのおじさんも笑い、壁一枚へだてた向こう側の女風呂の脱衣所にいる女達も、なんだか愉快な気配を感じて笑うだろう。銭湯はとってもあたたかいところだ。あーあ、最近はめっきり数が減った銭湯だけど、温泉みたいな効能はなくてもそれ以上に元気になれる、いいところだ。――という唇だった。
目をこらす。
その顎は――えらから先端にかけて鋭いラインを描いているのに、顎先はゆったり丸く、その絶妙なバランスが顔全体を輝かせ、その魅力を何十倍にも【中略】のガンダーラの秘泉を持ち帰ったのだが、瓶から出したとたんみるみる蒸発してしまったのだ。俺は相棒の女盗賊・ベリノボツと、必死で気化した不老長寿の秘泉を吸い込もうとがんばったが、むせただけで終わる。長い長い旅の末に得られたものは何もなく、一気に力が抜けた俺達は、不老長寿の秘泉伝説にとりつかれる以前の夢だったカフェをオープン。高水準のキレとコクを両立した絶妙なブレンドのコーヒーを出す店として、そこそこ繁盛する。棚になんとなくオノナツメの漫画を揃えたのも一因だろう。俺はドリップしたコーヒーの香ばしい匂いに包まれて、スローライフを満喫するのだ。――という顎だった。
目をこらす。
首は――ほっそりと長く、しわひとつないそれは、国宝級の陶器のようであった。値をつけるとするならば【中略】し、六百万光年も離れていては、この報せが母星たる《ガイア・オリジン》に届くころには、すでに巨大隕石に破壊し尽くされているであろう。そこで母星から遥か遠くの宙域にいる俺達MMRが取れる方策は、祈ることのみ。宇宙船《アッキーナ四世号》の乗組員は多国籍で、仏教、キリスト教からゾロアスター教、その他数多ある密教に至るまで様々な神へ祈りがささげられたのだ。……伝わったかな。うん、伝わったんだろう。さあ! やれるだけのことはやったし、そろそろ給食の時間だ! 今日は21世紀を代表する料理、お茶漬けだぞお!――という首だった。
まだまだ目をこらす。
目をこらす。
目を――
◇
俺は目をこらす。しかし暗くて美少女の容姿はよく見えなかった。気がつくと夜になっていた。それにしても……
とても目が疲れた。寝よう。
終
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