短編ウェブ小説

霧 の 湖 で


 太陽を見ていた。
 湖の真ん中にちいさい二人乗りのボートがぷかぷか浮いていて、男が寝転がっていた。
 男は垂直に降り注ぐ陽光を真正面から見つめている。太陽を見つめててまぶしくないのか、目に悪いんじゃないですか、と思われるだろうが、春なのに初夏の陽気の本日2時の気温は30度近くて、反して肌寒かった早朝との温度差で霧が出ていた。水蒸気越しにみる太陽はまぶしくない。まぶしくないし、空気中に濃くたちこめる水分に光が反射してそこらじゅうきらきらした雰囲気を帯び、そのどまんなかにいる男は軽い酩酊感というか、前日よく眠ったのにまた非常に眠たかった。あたりは緑におおわれ、ああネイチャーしてるな俺、って感じなのであった。
 湖はアシ湖と呼ばれていて、けっこう広い。と男は思っていた。男の記憶にある湖の表面積の相場ではけっこう広い部類に入る。ボートのオールを全力で漕いで対岸に着くまで3分かかるくらいだ。アシ湖と言う名前は正式名称ではなく俗称で、ネス湖のネッシーが流行ったころからアシ湖と呼ばれるようになった。湖の周辺の人たちのこういう会話が由来となっていて、それっていうのが
「ネッシーやて。あれほんまもんかいな」
「ぱちもんちゃうんけ、あんなもん」
「あほか、恐竜じゃ。昔おったんじゃ、その生き残りじゃ、あほ」
「ばったくさいけどの、まあそのネス湖ちうとこえらい賑やかになっとーの」
「そやそや、うらやましいやんけのあほ」
「うっとこのこの湖にも出やんかいなあ」
「出んにゃらなー」
「狭いし、ちょっといったら工場あるしの」
「自然ぎょおさん無けんと、にゃんちゃんん?」
「にゃんちゃんちゅうてなあせ?」
「出やんのちゃうんちの」
「でゃんちゃんちゅのけ」
「わっはっは、そうそう」
「え、なにが?」
「すまん」
「でも名前わるいわ」
「せやな。ネス湖やけ、ネッシーちゅて名前でかわいがられとる」
「ネッシーの戦略ちゃう? 選んでネス湖から出てきたんちゃう?」
「そやったらうんとこん湖あかんな。そらけーへんで」
「勝手にちゃう名前で呼んだらええんちゃうん」
「ええやんええやん」
「アシ湖でええやん。アッシー出よるで」
「アッシーええやんけアッシー。対岸までのっけてもらおけ」
「アッシー怒りよるで。わしゃトヨタのカローラかちゅうて」
「ほたらアシ湖って呼ぶことな、この湖」
「アッシーしまいにミツグくんて呼ばれよるで」
「もうええねんそれは、恐竜関係のおなっとるやんけのあほ」
「わっはっは」
「あははー」
「もうー、ははっ」
「おっと、もう夜更けやんけ、星がよおでとお」
「おほっさん、きれいのあほ」
「ああ」
「うむ」
 そういうわけでアシ湖で定着したのである。 
 アシ湖がどこにあるかというと、田舎町のさらに田舎方向、山奥に向かったところにある。そこには工場があって、男はそこの職員で、いま休憩時間なのでアシ湖で午睡しているのであった。
 職員はタダでアシ湖のボートに乗れる。しかし決してそれがうらやましいような湖じゃないし、ボートでもない。
 山の工場とアシ湖のあるあたりのもう少し下ったところには道の駅のような場所があって、定食屋や地場産品の売り場なんかがあり、工場の食堂に飽きた職員がそこの定食屋で昼食を食べることがよくあるが、店のおかみが職員をみて「作業服よお汚しとんなあ、嫁はん大変や」と言う。ほとんどつっぷすようにして定食をかっこむ職員たちの、作業服の背中には黒ずんだ藻のようなものがたくさんついているが、これは工場の仕事でついた汚れではなく、手入れのおざなりなボートを覆うカビとかコケなのだった。ボートで寝る行為は休憩時間に行うレクリエーションの中でも人気なのである。そのときにたっぷり服につく。
 男は、霧でぼんやり拡散する光と湖の水面の心地よい揺れによって、ゆっくりと睡眠状態に移行しようとしていた。
 ――どんっ
 いきなりの振動。地面がひっくり帰るような揺れ。男の目はそれでぱっちりと覚めた。
 彼が起き上がると、自分のボートに別のボートがぶつかっていた。そのボートには作業服の別の男。
「イサオ、休憩もうおわるど」
 そいつが告げる。そいつはプリンと呼ばれている。愛称だ。そしてプリンの言うイサオはボートで寝てた男の名前。
「もうそんな時間け」とイサオ。
「そや」プリン。
「そうけ」
「行ごげ」
「うんほな行こけ」
 イサオとプリンは、それぞれオールを漕いで岸に向かった。霧におおわれて白む神秘的な湖の水面が、二そうのボートがたてる波できらきらと輝く。
 誰も気付かなかった。
 霧と、日差しできらめく水面の下に、ボートの十倍近くある巨大な影が一瞬見えたことなど。

   ◆

「アラシ! いつまで入ってんの」
 キッチンから廊下に顔をだして彼女は声を張りあげた。息子のアラシはいつも長風呂だ。
「もうすぐ晩ごはんよ!」
 まったくもう……誰に似たのかしら。と彼女――倫子は思う。アラシはまだ7歳で、近所のママ友の話をきくと、それくらいの年の子どもはお風呂は早くあがりたがるらしい。なのに息子はいつも1時間近く風呂から出てこない。
 遺伝かしらね。
 倫子は兼業主婦で、温泉ライターの仕事をしていた。若いころから秘湯・珍湯巡りを趣味にしていて、たまったレポートを旅行関係の仕事をしている友人に見せたら、有名旅行雑誌のライターの職を紹介してくれた。彼女は入浴の時間が何より好きだった。 
 いつもアラシは夫の勇が工場の仕事を終えて帰宅してから、ふたりいっしょに風呂に入る。しかし出てくるのはいつも大人の勇が先だった。アラシは入浴時間が好きでたまらなく、ながく楽しむために、入浴前後にはたっぷりと水分補給をしていた。
「アラシにはゲームより風呂のほうがいい娯楽みたいだね」
 風呂からあがってパジャマに着替えた勇は柔和な笑顔を作ってそう言った。
「俺が風呂で、工場のちかくの湖の話をしてやったら、すっかり自分の世界に入ってしまって、とちゅうから俺の話なんか聞いてくれなかったよ」
 まいったなあ、と頭をかく。言いながら楽しそうな夫に、倫子は冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを出してやる。
「お。サンキュー」
 プルを開け喉を鳴らしながら缶をかたむける。
「ぷはーっ、ぬわーっ、しかしあれだね」
「なによ」
「もうちょっと大きくなったら、お前、アラシをいろんな温泉につれていくつもりだろ」
「もちろんよ」倫子は鼻息を荒くして、「あの子、顔はあなた似だけど、お風呂好きの才能はあたし以上のものを持ってるわ。英才教育はなんでも早いうちからやらなくっちゃね」と腰に手を当てる。
「ははっ、温泉が教育かい? 温泉大学でもあれば首席で卒業できるようになるかも知れないけどねえ」皮肉っぽく言う。
「あら、今日本の温泉は世界中の注目を集めてるのよ。知らないの?」
「はいはい、わかったよ。そのかわりその温泉英才教育ツアーには俺もついて行くからね。我が子の成長を見守るのは父親のつとめだからね」
「殊勝な姿勢ね。もっともいやがっても付き合ってもらうつもりだけど」
「まったく……。湯あたりして途中でリタイアしないように今から鍛えておくよ」
 苦笑する勇。ビールをひとくち飲もうとすると、
「あっ。あたしにもちょうだい」
 横から伸びた倫子の手にうばわれた。
「まったく」笑ってしまう。


 アラシは湯の中に顔を半分つけて水面を見ていた。水面におもちゃのボートをふたつ浮かべて下から手で操作する。ボートが並んで湯船の湖を進む。扇状の航跡を作りながら進むボートが湯船のヘリにたどり着くと、
「ざばぁーっ」
 アラシが叫んで恐竜の頭に見立てた拳を湯の中から突き上げた。勢いで湯が天井まで飛び、水面には激しい波が幾重にも生まれ、ゆっくりと広がっていたボートの航跡を跡形もなくかき消した。ヘリに寄せたボートも波にもまれ一そうが転覆した。
「うわーっ、アッシーだあっ!」
 恐竜に驚く職員になりきって叫んだ。
 アラシにとって、風呂は夢の世界への入り口だった。ふつうの子どもが布団の中で、親に絵本を読んでもらって夢の世界に飛び立つように。
 風呂の温度が、湯気が、湯船に張られたお湯が、万能の舞台装置となってアラシの夢を演出する。
「うわーっ、たまげたあ! でもこれで、グッズの屋台でぼろもうけや!」
 アシ湖に現れたアッシーをめぐる、アラシ監督のスペクタクルはまだまだ続くのだった。


「アラシ! いい加減あがりなさあい」廊下をのぞいて呼びかける。
「まだ40分しか経ってない」勇が掛け時計を見やる。「あと20分は待たなきゃな」
「お刺身だけ先に食べてましょうか。もう、アラシったら」
 やれやれといった具合で、倫子は冷蔵庫からお皿に盛りつけたマグロの刺身を取り出す。
 確かに言えることがある。
 お風呂はだれでも思わずうきうきしてしまう魔法の空間。
 ひとりで入っても楽しいし、誰かと入れば絆が生まれる。
「まあ、お風呂っていいものだもんね」
 それだけは確か。



   おわり


◆ 【小説】へ | TOPへ ◆