町の商店街を歩いていて、どすっ、どすっ、と鈍く重たい打撃音が聞こえてくることがあるだろう。
耳をすませば、どこから聞こえてるのかわかるはず。
そう、商店街の一角、いつもシャッターの閉まった金物屋やさびれた布団屋とか、そういうわびしさを醸した店と店とのあいだにある狭い路地。その奥から聞こえるはずだ。
それはどこの商店街でもあるような路地だから、その向こう側にあるものもまた、どこにでもある、ありきたりなもの。
狭い路地をゆこう。奥へ、奥へ。
どすっ、どすっ……
腹に響くその音はだんだん大きくなる。
狭く薄暗い路地をさらに進むと、視界がパッと開けるだろう。
どすんっ!
路地を抜けると、とても広い場所に出る。たくさんの柱とわらの屋根、そして四角い格闘技のリング。おびただしい数のそれらがそこらじゅうにある。大人も子どもも大勢いて、皆でサンドバッグにハイキックやミドルキック、ひざ蹴りなど、思い思いのキックをぶつけている。ひじでもいい。路地の出口に一番近い男が、樹木のようにごつい脚で鞭のように速くしなやかなハイキックをサンドバッグに叩き込む。どすんっっ! と重い打撃音。
それは、どこにでもある商店街の、ありきたりな路地を抜けた先にある、飽き飽きする光景。そう、そこは…………何、みなまで言うな? 全くごもっともな言葉が聞こえてくるが、言わねばならない。
商店街行ったことある人にはおなじみもおなじみ。そう、そこは、イッツ・ア・ムエタイランド!
ブカブカ、ドンドン!
◇
ムエタイランドは広い。住居ことジムはもちろん、会社、商店、喫茶店、レストラン、学校もある。ランドはひとつの街である。
そこに暮らす人々――ムエ民(たみ)は、ランド外の日本の街に暮らす住人たちとなんら変わらない、私たちの隣人である。
なので、ムエタイ中学校に通う生徒たちも普通の子どもたちだ。健全な中学生然とした甘酸っぱい思春期を謳歌していて、女子生徒は恋愛に興味津津、男子生徒はそしらぬ振りをしながら女子のことが気になって仕方がなかった。
ある日のムエタイ中学校の放課後、校舎裏の《実りの木》の下でそわそわしながら立ち尽くす3年生――タイシもそんな甘酸っぱい盛りの男子のひとりだった。
「あーあ、ジムの練習まで時間あるから来たものの……。机の中に『大切な話があるので放課後《実りの木》の下に来てください。――ピンクサファイアの脛より』って書いた手紙が入ってたけど……」
タイシは、その手紙が何を意味するのかを考えて浮足立ち、アフターホームルームが終わるとダッシュで指定の場所に来ていた。他の教室はまだ終わってなかったので、少々早く来すぎたようだ。なのでタイシはぶつぶつ言いながら所在無げにひゅっ、ひゅっ、とローキックの素振りをして時間を潰す。なんとも落ち着かない気分だ。
「だいたいピ、ピンクサファイアの脛ってなんだよ。サファイアみたいに硬い防御のできる脛ってことか? 白い足にほんのりピンクの脛ってことかな。そ、それなら嫌いじゃないけどな……」
などと、頬を赤らめながら独り言を言っていると、校舎の角からタイシのムエタイクラスメイトのキキが現れた。活発なショートカットの髪と、きれいな脛の女子生徒だ。
おずおずとこちらに歩いて来る。うつむいた目線をちらっとあげてこちらを見たときに目が合うと、彼女はすぐに目をそらして、立ち止まってしまう。
タイシはキキの、なんだか自分以上にそわそわした雰囲気を見て、
(手紙くれたの、こいつか)
と思った。
ムエタイクラスではキキは普段、教室にいればいつでも声が聞こえてくる元気な生徒で、タイシとは軽口やひじ・ひざをたたき込み合う仲の良い友達同士だった。だから今の、自分の前でうつむいてもじもじしている彼女の姿は意外で、それが手紙の主が彼女であるとタイシに確信させた。
「よ、よお」
タイシはなるべくいつもの調子を保ちながら声をかけた。うつむいたままのキキも何か言ったように見えたが、声が小さくてタイシには聞こえなかった。
「どうしたよ、校舎裏なんかに来て。しょんべんか?」
タイシはいつもの調子、いつもの調子と胸中でつぶやいた。普段なら、タイシのこのデリカシーに欠けた発言に、軽いバックエルボーとともに「ばぁか、あんたじゃあるまいし」とかなんとか言って返してくるはずなのだが。
手紙をくれたのは彼女かどうか、確信しつつも、絶対とは言い切れない。向こうから切り出すまでは、こっちは普段通りにしていよう。
「…………」
しかしキキは黙ったままで、しかもさっきまでよりさらに目を伏せてしまった。
その様子を見て、らちが明かないと思ったタイシは、少しためらってから勇気を出して訊いた。
「お、おい。つ、机の中に手紙入れたのおま……」
「ちょっとあんた! 最っ低〜!」
言葉の途中で、キキの後ろ、校舎の角から女子生徒がふたり肩を怒らせながら出てきてタイシに怒声を浴びせた。ムエタイクラスメイトのツクボだ。タイシは心臓が飛び出るほど驚いた。
もうひとりは隣のムエタイクラスのクシ。たぶんこのキキとツクボの友達だろう。
「しょ、しょんべんって、ほんと、デリカシーないんだから!」クシが言う。それから声を落して「どこがいいのよ、こんなやつ」と誰ともなしにつぶやく。
「でもいつもこんな感じよ」とツクボがクシに耳打ちすると、「えー?」「昨日の昼休みのときなんてね……」とかふたりであーだこーだ言い始めたので、
「ツクボにクシ! 出てこなくてもいいって言ったじゃない!」とキキが叫びつつ跳躍し、左右のひざをツクボとクシに同時に打ち込んだ。
「あら、だってキキったらてんでじゃない。折にふれては上下同時のひじとひざで机を叩き割るいつものキキだったら、あたしたちわざわざ出てこないわよ」と、キキの飛びひざをサイドスウェーでかわしながらツクボ。
「そうだよ。こんなデリカシーないやつなんだから、ばしっとぶっつけてくればいいじゃない! 『ひじ、ひざより速し。まくがごく、放ちおいや』よ!」と、飛びひざの力を回転していなしながらクシ。
まくしたてて緊張をほぐそうとしているのであろうキキの友人たちだったが、ずざざっと着地しながらキキはまたおどおどして、
「だ、だって、こういうの、な、慣れてなくて……」
と小声で漏らすだけだった。
女子生徒3人の内輪のやり取りを見ながらタイシは、どうしていいかわからず居心地悪くなりゆきを見ていた。
「もう! なるようになるわよ」
「そうそう。ね! 見守っててあげるから」
ツクボとクシはそう言いながら、キキの背中を軽く回転打ち下ろしエルボーや跳びひざで小突いて、彼女を急かした。
「ちょ、ちょっとぉ!」
他にも軽いミドルキックややさしいツインエルボーなどで小突かれながら、しかしキキはそうして背中を押してくれる2人の親友の優しさがうれしいようだった。
「…………」
なりゆきを見ているしかないタイシ。手持ち無沙汰で、右ひじの何度もサンドバッグに打ち付けて硬くなった皮膚を左の指でとんとんと叩く。
しばらく女子3人できゃあきゃあやってから、キキはこちらに向き直った。今度は顔をあげて、まっすぐタイシの方へ歩き出した。
タイシの目の前(立ちひざの間合いのギリギリ外ぐらい)でキキが立ち止まる。
目をそらそうとするのを必死でこらえている様子のキキを、浮ついた気持ちを引き締めてタイシもまっすぐ見つめた。
ふたりの心拍が秒単位でどんどん速くなっていく。
キキは最大限の緊張で、今の自分の状況が現実に起こってることではないとすら思えてきていた。震える肺で深呼吸する。
でも……今言わなければ。
キキは一度くちを一文字に引き結び、大切な言葉に気持ちを乗せるため、もしくはごく自然に、タイシに焦がれる日々を思い返した。
……ムエたい。
ある日の深夜。
キキはベッドに横になり自分の部屋のあかりを消した。眠りに落ちるため目を閉じる。
〈……キキ!〉
暗闇と静寂の中、意識を弛緩させると、自分の名前を呼ぶ声がきこえた。ムエタイクラスメイトのタイシの声だった。
脳裡に彼の顔が浮かんだ。コンビネーションの授業のときに見た、タイシの引き締まった体が浮かんだ。するどい前蹴り。風を切るエルボー。野生の虎のようにしなやかな跳躍からの飛びひざ。
わずかに動悸が早くなった。訪れかけた眠りが遠のいていく。
彼の声が、いたずらっぽい目が、子どものようなことばかり言う口が、重い打撃に耐える首が、強く鋭い腕の動きを可能にする肩が、サンドバッグ打ちで硬くなったひじが、拳が、上半身のひねりの要となる腰部の筋肉が、太い腿が、丸く硬いひざが、下段防御の要である脛が、なだらかなこぶのできた足の甲が、彼の全ムエ体が、キキの動悸を早くした。細く、ふっ、と熱い吐息が漏れる。胸がつまるような切ない気持ちになった。
手が、自然に動いた。
右手が目的の場所へ向かってすうっと移動する。
そこに手を入れて指でさぐる。力んで思わず「んっ」と声が漏れた。
指が小さな突起に触れた。改めて場所を確認して、中指を引っ掛けるように添えた。かり、と突起と動かす。
はあっ、と詰めていた息を吐いた。
何かがひらいていくのを感じた。
ウイィィィィィーーー……
モーターが作動する音が小さく、しかし静寂に際立って鳴る。
イィィィィィーーーン……ガシャ
最後に金属、太い鎖のようなものが擦れ合うような音がして、モーター音が止まった。
キキは枕元のリモコンで電灯をオンにし、あかりを点けた。
ぬいぐるみや丸みのあるナチュラルカラーのインテリアが置かれた年相応の部屋の真ん中に、大きく無骨なサンドバッグが現れていた。天井に四角く空いた穴から鎖で吊られている。サンドバッグは普段、天井裏の機構に収納されていて、ベッドの裏に取り付けたスイッチでモーターが作動し、天井から下りてくるのだ。
キキは、ベッドの上からスイッチに伸ばした右手をもどすと、体を起こしてベッドから下りた。スイッチを入れるのに無理な姿勢をしていたので右肩をまわしてほぐす。
それからパジャマのままサンドバッグの前に構えた。
「はっ」
一声し、サンドバッグへハイキックを叩き込んだ。どす、と重たい音がしてサンドバッグが揺れた。さらに4発ハイキックを放った。
続いて、右ストレート・左エルボーのコンビネーション。「シシュッ!」という呼気とともに、右、左がひとつながりの流れるような動き。ぱ・ぱん、と鋭い打撃を叩き込んでいく。
サンドバッグの向こうにはタイシが見える。キキはタイシを想い、タイシに向けて己の肉体をぶつける。
「はっ! はっ!」と右エルボー。
「タイシっ」左ミドルキック。「タイシっ」もういちど。
「シッ!」足を入れ替えて、右ミドル。
「は、ああっ! ムエたいっ」さらに打ち込む。
「ムエてみたいっ。こんなに……」
一拍間をおき、鋭く踏み込んでもういちど。
「ムエたいっ!」
どすんっ! とサンドバッグが大きく揺れた。
大きく深呼吸し、改めて構えなおす。
「ふっ!」
鋭い吐気とともに、全身を凶器と化した複合コンビネーションをサンドバッグに叩き込む。ワン・ツー、エルボーパット、立ちひざ、ロー・ミドル・ハイキック、バックブロー、回転エルボー、前蹴り、後ろ回し蹴り――
無数の打撃を間断なく受け続けサンドバッグが痙攣する。
毎日タイシと同じムエタイクラスにいて、ふざけあって、キキははじめタイシのことを、仲のいい友達だと思っていた。でもいつのまにか、タイシといっしょにいて楽しい気持ちが、友達に対するものと違ってきていることに気づいた。そして、タイシとムエたいと思うようになっていた。
最近よく妄想する。タイシのムエ手になったわたし。ひざ蹴りは得意だけど、ひじはリーチをちょっと短く読み違えてしまうおちゃめなところもあるわたし。それをムエタイ目をして見る彼。それから、ムエない日は焦がれたり、いつか面と相ムエ対してムエたい思いを打ち明けあったり……。
キキはサンドバッグを両手でホールドしたまま一歩引いて、床を蹴り――
「ああムエたいっっ!!」
全体重を乗せた飛び膝を打ち込んだ。ひときわ大きく揺れるサンドバッグ。その手ごたえにキキは満足した。
《実りの木》の下、タイシとキキが立ちひざの間合いで対峙する。少し離れて見守っているツクボとクシ。
タイシは真正面から見据えるキキの双眸に決意を感じた。
「…………タ、タイシ。わ、わたしの……あの、あ……」
じっと言葉を待つ。
「わたしの……ム、ムム、ム、ムエ手になってくださいっ」
顔を耳まで真っ赤にしたキキの言葉を受けて、タイシの心臓も早鐘を打ち、顔を真っ赤にした。
タイシは困っていた。キキは仲のいい友達だった。そんなふうに見たことはなかった。それに……。
どうすべきなのか?
キキが自分の言葉を待っている。ツクボとクシもそれを見守っている。
張りつめた空気。短いが、当人たちにはとてつもなく長い沈黙を経て、タイシが口を開いた。
「その、すごく嬉しいよ。なんか、お前にそんなこと言われるなんて考えたことなかったから、びっくりしてる」
キキは今すぐでも逃げ出したかった。タイシがどんなことを言うとしても、もうこれまでとは違う関係になるだろう。その変化が怖かった。しかし、耐えて聴く。
「……でも、ごめんっ」
――――――。
キキは頭の中が真っ白になった。思考がどこかに飛んで、何を言われたのかそれがどういう意味なのかすぐには理解できなかった。
「そ、そう。残念ね」
しかし言うことを言ってふっきれたからか、キキはいつものトーンで喋ることができた。ただ、自分の足がかすかに震えていることには気付かなかった。
少し離れていたツクボは結果に口を出さないつもりでいた。これは当事者同士の問題だ。しかし親友の申し出が断られたのを目の当たりにして我慢できなくなった。彼女自身ほとんど無意識に飛び出し、タイシのひざを狙ったスライディングキックの体勢に入っていた。
「!? おわっ」
タイシは目の前にキキに気を取られて、ツクボの地面すれすれを滑空しながらの攻撃に一瞬反応が遅れたが、遠距離からだったためぎりぎりでジャンプしてかわした。
「ツ、ツクボ……」とあっけにとられるキキ。
スライディングの体勢から瞬時に立ち上がったツクボは、タイシをにらみつけた。
「な、なんでよ! キキはいい子よ! 昇り竜のような上段飛びひざは男子だってのしちゃうのに!」
「ツクボ、もういいよ」
キキになだめられるツクボだが、彼女自身、自分がなんで飛び出してしまったのかわからなかった。タイシにも選ぶ権利はある。ただ、このまま見過ごしてはいけない、という感情が、湧き上がっていた。
ムエ手になってほしいという告白には、どれほどの勇気と覚悟がいるか、ツクボ自身経験から知っていたし、何か月も前からキキに相談を受けて、彼女が思いつめてるのを見てきた。
ムエ手とは、無得手(むえて)である。相手に対して何も求めず、何も期待しないし、自分から相手のために特別なことをしない。
無得手同士になるというのはそんな関係になることだ。でもそれは拒否や無関心ということでは決してない。お互いの存在を認め合うこと。相手がこの世に存在する――ただそれだけで満足し合える関係になる、ということである。究極的には言葉さえいらず、お互いの存在、つまり『ムエ体』をムエタイでぶつけあえば、全てわかり合えるすばらしい関係だ。
だからそのための告白は、ムエ民にとってとても大切なことなのだ。
ツクボは激昂する。
「だめよ! こいつキキの気持ち何にもわかってないのよ! 出る幕じゃないのはわかってるけど、わたしただ見てるだけなんて――」
「おれ!」ツクボの言葉を遮ってタイシが叫んだ。「おれがムエたいのは、ツクボ、おまえなんだっ」
………………。
どこか間の抜けたような沈黙だった。
「へ?」
ツクボが変に高い声で呻いた。
「だからおれは、キキとムエ手になれない」
「だ、だって……そんな、キキ……でも、わたし」
思いもよらなかった展開にうろたえるツクボは、タイシではなくキキの方を見て、ただ意味のない言葉を漏らすしかできなかった。
「…………なんだ。じゃあ、しょうがないね」
無感情な声でそう言って、キキが踵を返した。そのまま走り去ろうとする。
「キキ! わたしっ」
「バイバイ! また明日教室でね!」
ツクボの言葉を遮って、キキは振り返って明るく言う。しかし、結果を受け入れることができたはずなのに、キキは体のどこが奥の方がキリキリと引き絞られるように痛むのを感じていた。
キキは皆に背を向け走った。そして斜め上方の遥か彼方に見える、夕日に染まった雲のひとつに狙いを定め、左足で踏みきってジャンプした。雲めがけての飛びひざ蹴りだ。通常の跳躍なら当然届くわけないが、ここはムエタイランド。「飛びひざ蹴り」という名目ならどこまで飛んでもOKだ。『ひざ滑空』といういたってポピュラーな移動手段である。
キキが飛び去り、《実りの木》のまわりに残されたタイシとツクボとクシ。
ツクボは、自分がつくづく嫌になった。何もわかっていなかった。それでも、タイシの言葉に、それまで意識したことなんてなかったくせに、頬を赤くしてしまう自分に激しい嫌悪感を覚えた。
「ツクボ……」タイシが回答を求めるように呼ぶ。「いま答えるのは無理だと思うけど――」
「そんなの、だ、だめに決まってるじゃない! 考えたっていっしょよ!」
嘘だ。確かに、キキからの相談を受けていて、彼のことは親友の思い人としか見ていなかった。でも、彼のローキックには惹かれていた。無駄のないフォームが可能にする、一見軽く振ったようにみえて当たれば大砲のような威力の、高次元のローキック……。
(キキは親友よ。こんなの許されない……!)
「そうか……そうだよな。ごめん」
そう呟いて、タイシも立ち去った。
ごめん、と言った。タイシに非はないが、彼なりに責任を感じたのだろう。
誰も悪くないのだ。そのことはツクボにもわかっていた。
明日キキが学校に来たらなんて声をかけよう。「もちろん断ったよ」って言ったら、今まで通りに接してくれるだろうか。
誰も悪くはないが、何かが壊れた気がした。それとも明日になれば何事もなかったようにひじを交わし合えるだろうか。
それと、ひざ滑空で飛び去ったキキがやけになって、ひざ巡航中ムエタイ乱気流に巻き込まれてしまわないかも心配だった。
いろんな思いが頭の中で渦巻いているが、今は、もう何も考えたくなかった。
「クシ、帰ろう」
早くベッドで眠りたい。
「ごめん、教室に忘れ物取りに行かなきゃ」
「……そっか。じゃあ先に帰ってるね」
ツクボはひじを上げて、クシと別れた。
校舎裏にはクシだけが残った。教室に忘れ物があるというのは嘘だった。
夕日がたたずむ彼女と《実りの木》に長い影を落とす。
「…………」
クシは突然、ぐわっ、と自分の顔面をわしづかみにした。その手をぐっと握りこむと、指が皮膚にめりこんでいく。そして――
めりめりめり……べりぃっ
クシは顔面の皮膚を引き剥がしてしまった。手の中で立体感を失った顔面がひらひらと揺れた。
剥いだ皮膚の下にあったのは、むき出しの表情筋や毛細血管ではなく、また、皮膚であった。それは全くの別人の顔。男――それも老人の顔だった。
彼はキキの祖父でムエタイの師、インである。
スカートにお下げ髪の女子中学生姿のイン老人は重々しく呟く。
「『得るもの得られず、無得道(ムエタオ)歩む。他は得られぬ、ムエタイの道。頂き至りて得るもの唯一つのみ有りや』……か。
ままならぬものよのう、キキ。しかし、その運命がお前を強くする。お前はムエタイの神さんに目をつけられちまったのかもしれんなあ」
イン老人は、孫娘であり弟子でもあるキキを慈しむような、あるいは哀れむような、そんな笑みを女子中学生の格好で浮かべた。
遥か上空。キキは赤い雲海をひざ巡航しながら、あとからあとから溢れだす涙と、混沌とした感情を止められずにいた。
「うわあああああああああああああああああああああ――――」
ツクボを傷つけて、タイシとはムエ手になれない。自分は何なんだろう?
ムエタイはとても厳しい格闘技だ。
◇
「へい、えらっしゃい!」
「暖かくなったわね」
「へえ。いつもお買い求めの、お安く入ってますよ」
商店街の小さな米屋の従業員の青年・滝口は、近隣の農家に安価で卸してもらっている米を勧める。この常連の主婦は、いつも5キロ買っていく。
「そうねえ。でも来週の連休親戚の子たちが泊まりにくるのよ。よく食べるから」彼女は子ども達の元気な食べっぷりを思い浮かべてか、優しく微笑む。「こっちの10キロのいただくわ」
「毎度ありっ!」
客を見送りながら滝口は、ふと、通りを挟んで向かい側の金物屋と布団屋に目をやった。シャッターが下りているその2軒の間に、幅1メートル足らずの狭い路地がある。米屋は路地の正面にあったが、路地の両側にそびえる壁と両店舗のわずかに張り出した屋根がつくる陰で、その奥までは見通せなかった。
「…………」
どすんっ!
突然の音に、滝口ははっとした。
彼の後ろ、店の中で米袋を積み上げていた後輩従業員が、米袋のひとつを落したのだった。
「あー、すいませんっス」
中身は無事だったようだ。後輩はたいして気にしてない様子で滝口に謝罪した。
「気ぃつけろ。店長もどってたらまた説教だったぞ」
「うわぁ、そりゃ耳にタコっすね」
夕暮れの商店街。客足もまばらなので、滝口も後輩従業員の作業を手伝った。
「ところで、グっさん先輩」
滝口は後輩にグっさんと呼ばれていた。
「あん?」
気のない返事をすると、後輩はへらへらしながら、
「さっき、客のおばはんが米買って行ったあと何ぼーっとしてたんスか? あのおばはんタイプだったんスか? 前に年上が好みっつってましたもんね」
「ありゃ上すぎだ、ばかやろう。俺は国生さゆりみたいなのがいいんだよ」
それを聞いた後輩はぼそっと言う。
「けっこう年くってるじゃないスか……」
そのあとも、ときおり私語をしながら作業を続けた。
滝口はきりのいいところで中断し、店のすぐ近くの自販機にコーヒーを買いに行った。
缶のプルを開け、一口飲む。無意識に、ふー、と息をついていた。
この時間、このあたりは静かだ。近くに駅直結のショッピングモールなんぞができて、新しい客がほとんどそっちにいってしまう。近隣では、まだ若い滝口が知ってるだけでもかなりの数の店舗が看板を下ろした。
そんな商店街の不況を表すようにアーケードを覆う長い屋根は古びていて、ところどころ破れていたり、修理のために一部屋根板が取り外されていたりする。滝口が見上げると、屋根板の形に切り取られた夕焼け空が見えた。
不意に、すっ、と黒い影がひとつ、四角い空を横切った。一瞬のことだったし、遠すぎてはっきり判別できなかったが、なんだかそれは、ひざを突き出した体勢の人の形だったような気がした。
かあ、かあ、とカラスが鳴いた。
(なんだ、カラスか……)
滝口はすぐ興味を失って仕事にもどった。
◇
ムエタイランドはどこにでもある。
あなたが知ってる商店街の路地の奥にも、きっと…………。
終 |