からからん
とドアベルが鳴り、暑気を帯びた夏の空気と一緒に入ってきたのは虎之介だった。虎之助は近所の小学校に通う4年生だ。皆からはトラと呼ばれている。タイガーと呼ぶものもいる。トラは、彼にはやや高すぎるカウンター席の椅子に飛び乗るように座ると開口一番、 「おっちゃん、いつもの!」 乱暴な注文を受けた男は、やれやれ、といった風情でゴブレットにかち割り氷をいっぱいに詰め、そこにマンゴージュースを注いだ。
「毎度毎度……こりゃタイガーのためのメニューじゃあないんだぜ?」
「よう言うわ。わいが頼まへんかったら、こんなジジババばっかり集まる辛気臭いサ店でマンゴージュースみたいなトロピカルなもん誰が飲むねんな」
男は、ジュースのボトルを足元の冷蔵室にしまう。その中には他に、ブラッドオレンジジュースやデコポンジュースなど、こだわりのかんきつ系ジュースがある。実際、これらのジュースは不人気だった。単純に客が少なすぎるからだ。そして、それらを入れるゴブレットにはキズひとつ無かったが、別に手入れが行き届いているわけではなく、使われてないだけである。
「ちっ、へらず口だけは一丁前だな、タイガー。しかしそういうことはタダ飲みしなくなってから言えよな」 「ま、ええやん。それよりおっちゃん、そのタイガーいうのんやめてんか。そんな呼び方されたらわいがイキリみたいやん」 「だったら俺のことをおっちゃんっつうのもやめてくれ。俺はまだ30のおにいさんだぜ」 「30いうたらおっちゃんや。で、40なったらじじい。30のきたないおっちゃんはおっさんやから、おっちゃんまだ、おっちゃんって言われてるだけマシやで」 「おうおう、サンキューサンキュー」 ああいえばこういう。トラにくちではかなわないと、相手にするのをやめた“おっちゃん”は、ほうきを持ってカウンターから出て行き床を掃き始めた。トラはゴブレットにささったストローに口をつけて、ジュースを飲み始めた。
“おっちゃん”と呼ばれたのは竜田隆一(たつた・りゅういち)。この、《喫茶ダブルドラゴン》のマスターだ。 いまは土曜日の昼の2時。客はトラひとり。正午を過ぎてからひとり目だ。普通の喫茶店なら、家で昼食を終えた(ご年配の)紳士淑女が新聞を読みに来たり、井戸端会議の延長戦をしに来たりするものなのだが。 隆一はこだわりの強い男だった。 喫茶店をやっていて、採算がとれればいいだの、客の要望にこたえてランチメニューを充実させましただの、くそくらえ! 俺は俺の飲ませたいものを飲ませ、食わせたいものを食わせ、聞かせたい音楽を聞かせる。昔から喫茶店つうのはマスターのこだわりがつまった箱庭でショーケースで美術館で、同調できるやつが集まってお互いのこだわりや自慢なんかの話をするって、そういう場じゃなかったか?
――というのが隆一の個人的な考えだった。
だが、そのビジョンをもとに商売をしてみて、結果が今のあり様だった。当然赤字つづきだが、なんとが土俵際でがんばっている状態だが、本人はあまり深刻には考えていない。 今のように床を掃いたり掃除をする時間はくさるほどあるので、店内はいつもぴかぴかで、それだけが《ダブルドラゴン》の取り得だった。 「……タイガー」 「なんや?」 隆一は床を掃いていて、椅子に座っているトラの足に目を留めた。
「お前、クツ片方ねえじゃねーか。お前んとこのバカ犬がどっかに埋めちまったのか?」 「ちゃうわあほ。おんなじクラスのトモユキいう奴が上級生にいじめられとって、クツ片方隠されよったから貸したっとるんや」 「へえ、ほんとかよ。お前、人の店の商品を毎日タダ飲みしにきやがる生意気なガキのくせに、いいとこあるじゃねえか」 乱暴な褒め言葉をもらって照れたのか、トラははにかみながら、 「やかましわ。タダで貸したんちゃうで。トイチや。このクツ三千円したから片っぽで千五百円、十日で一割やから百五十円もうかるちゅう、銭もうけや」 とぶっきらぼうに答えた。隆一は、小学生のトラのそんな意地っ張りなところが可愛いらしくて、 「ははっ、そりゃトモユキとかいうやつも借りる相手が悪かったな」 と思わず破顔した。 「でもいつまでも貸しっぱなしでも困るさかいに、明日トモユキに、6年にへこへこばっかりしてんと意地みしたれや! ちゅうて発破かけたんねん。自分のクツ自分で取り返してこいちゅうてな」 「まあそうでなきゃ根本的な解決にゃならんわな」 「せやろ」 「だがなあ、うーん……」 隆一は急に神妙な顔つきになって、思うところがあるように呻くと、今度は何かひらめいたように、 「そうだ……!」 と言って、床掃除をやめてカウンターの中の厨房にもどった。 「? なんやねん」 「お前コーヒー飲めるか? 飲めねえよな、お子様だもんな」 トラは、実際コーヒーは苦くて好きではなかったが、お子様という言葉にムッとして思わず、 「あほぬかせ。コーヒーぐらい飲めら」 と返していた。 「じゃあちょっと待ってろ」 トラは大人相手でも物おじしない性格から、飲食の好みも大人びていると思われがちだったが、そこはいたってお子様だった。好きな食べ物は甘いデミグラスソースのかかったハンバーグや、チョココロネ、エビフライ。ファンタ・グレープが好きで、食事のときも飲みたいくらいだ。 トラは、何をはじめるのかという表情でカウンター越しに作業している隆一を見ていると、彼は厨房でコーヒーをたてはじめた。
ザガガ、ガリガリガリ、ミシガガガー
手の指を爪と骨ごと砕くようなものものしい音をたてて、電動コーヒーミルで豆を挽く。挽きたての豆は、挽いてから保管している豆に比べはるかに酸化しにくく、味、香りともに最高の状態でコーヒーを抽出することができる。
隆一は挽いて粉末状になった豆を、ペーパーフィルターに移し、すり鉢状のドリッパーに乗せ、そこに細口のコーヒー専用ポットで熱湯を注いだ。まずは少量、挽き豆を濡らす程度に。コーヒー豆に秘められた味を引き出す「蒸らし」という工程だ。湯を含んだ豆はむくむくと膨らんでいく。豆が新鮮な証拠だ。ドーム状に膨らんだ豆の表面は細かい泡できらきらと輝く。膨らみきると今度は、中から湯気がドームを押し上げて、豆がマグマか毒の沼のようにぽこぽこと呼吸している様子が見てとれる。隆一にはこれがたまらなくセクシーに感じるのだ。誰も共感してはくれないが。 蒸らしはじめてから30秒ほど待ち、次は抽出に入る。膨らんだ豆の中心に、ゆっくり熱湯を注ぎ、15秒ほど注いで湯に押し上げられた豆がドリッパーからあふれ出す寸前で止める。そうして豆の風味をたっぷり含み、ペーパーに余分な雑味と油分が濾されて、ドリッパーの下にセットした耐熱ガラスサーバーに滴下していくのが、「コーヒー」だ。 「コーヒーとひとくちに言ってもピンキリでな、生産国やらランクやら焙煎具合やらブレンドやらで相当な種類があるわけだ。で今俺がたててるのは、ニカラグア・ドンパコっつう豆でな、香り高く、グレープフルーツみたいな匂いが特徴だ。味もコーヒーというより紅茶やらに近いかも知れないな。豆の名前にもあるニカラグアっつうのは生産国のことでな、この国は1900年代――」 抽出を待つあいだ隆一がうんちくを垂れているが、トラはあまり興味がないので頭に入ってこなかった。 適量のコーヒーが抽出されたら、ドリッパーを外して、サーバーからカップに移す。カップをソーサーに乗せ、コーヒースプーンとグラニュ糖とフレッシュを添えたら完成だ。 「おらよ。飲んでみな」 カウンター越しにトラに出来上がったコーヒーを差し出す。
トラとしては、ジュースを飲んで渇きは癒えたし、この暑い時分にできたてのホットコーヒーを飲む気にはなれなかったが、さっき意地を張った手前飲まないわけにいかなかった。せめて砂糖を入れたかったが、先ほどから隆一が豆のうんちくを語っていたので、空気的にブラックで飲むべきだろうと思われた。 飲みかけのマンゴージュースを脇にどけ、コーヒーカップを手にする。まずは香り。湯気立ち上るコーヒーを鼻に近づける。ローストした豆の香ばしい匂い、そしてニカラグア・ドンパコという品種の持つ柑橘系のフレーバーが、トラの鼻腔をついた。しかし全く知識もないしコーヒーを飲んだこともほとんどないトラには、それらの感覚はまとめて、 (焦げくっさ) という印象にしかならなかった。 続いて、カップに口をつける。まだ湯気がもうもうと立っているので、おそるおそるゆっくりカップを傾け、ひとくち飲んでみた。その瞬間――
「うっ!」 先ほどまで、飲みたくもないものを飲まされるはめになって気だるげだったトラの目がパッと見開かれた。 (熱っ!) まだ熱かった。熱くてびっくりした。
しかしトラは、情けないのでそれと悟られないように努めた。そして成功した。隆一が何やら感慨深そうにうんうんうなずいているからだ。トラが感激していると思っているのだろう。 今度は呼気でさましてからもうひとくち。さっきのでは味も何もわからない。 カップから適温のひとくちを口腔内に受け取り、コーヒーが舌の上に広がった瞬間―― 「うおっ」 トラは、これは……! といういう風な様子で手に持ったコーヒーを凝視した。 (苦っ! なんやこれ) 苦かった。 コーヒーなどほとんど飲んだこともなければ、苦いものが好きだということもない小学4年生の舌には、豆の品種もロースト具合もマイルドもストロングも何も関係なく、ただ、苦かった。 (にっが!) しかしその感情も表面に出さないように努め、成功した。隆一が、満足げに語りだしたからだ。 「さっきも言ったが、ニカラグアの人たちはコーヒー豆の栽培をし、その品質が世界に認められるよう努力して、貧しい経済情勢ながら自立する手段を手に入れたわけだ。だがそれは誰のちからだと思う? 彼ら自身? そうかもしれんが、少し違うな。正確には――」 ひとりで勝手に喋っている隆一だが、トラの耳にはそんなものは入ってこない。 (おっちゃん何でいきなりこんなもん飲ませよんねん。なんか意味あったんか?) トラの頭の中はそのことでいっぱいだった。 (飲みこんでもいつまでも苦いやんけ、くそ) 隆一は、ずっと喋っている。話題は、コーヒー豆の産地のことから、トラのクラスメイトのトモユキに移っているようだ。 「――と思うわけだ。それは、そのトモユキって友達には酷だが、確かに自分でいじめっこに立ち向かわなけりゃ本当の解決にはならないかも知れん。だが誰もがそんなに強いわけじゃない。だいたいそいつもお前と同じでまだ子どもだろ? そいつが変わるためには、背中を押してやるだけじゃなくて、タイガー、お前みたいなやつが前に立って先導してやることも必要なんじゃないのか? っていうことをこのコーヒーは実に雄弁に――」 しかしそれでもトラの耳には入らず、 (うわ、コーヒーまだまだ残っとるなあ。ひとくち飲んだしもう砂糖入れてもええよな? いやでもなんか悔しいな。いやいやでももうこれ、このままやったら飲めたもんちゃうしやな……………………ってなんでこんなことで悩まなあかんねん! なんや、だんだん腹立ってきた。なんやねんな、ええくそ!) と、彼は彼で勝手に感情を昂ぶらせていた。 トラのカップを見つめる目が睨みつけるような色を帯びてきたのを見て、隆一は自分の入れたコーヒーに込めた思いが伝わったのを感じて、「うむ」とうなずいた。“思い”といっても、全部声に出して語っていたが。 「タイガーよ、どうやらお前が今やるべきことがわかったようだな。よし! 行って来い! なに、お代はいらねえよ」 (あー、くそ、むしゃくしゃすんなあ! 誰かどつきたい気分やでホンマ。おっちゃんどついてもしゃあないしな、悪気あってあんなもん飲ませたんちゃうやろし。あっ、せや! あのトモユキいじめとった6年しばいたろ。スジから言うたらトモユキにナシつけさせんのがええところやけど、もうええわい!) 「おっちゃん、ちょっと用事できたさかいに、おいとまさせてもらうわ!」 威勢よく叫んでトラは入ってきたときのようにドアベルを鳴らし、夏の日差しに陽炎がゆれる路地へ飛び出して行った。
*
「おっちゃん、いつもの!」 後日、店に飛び込んできたトラはいつものように注文して、他に客のいないカウンター席に座る。今度は別の少年もいっしょだった。隆一はマンゴージュースをその少年のぶんも出してやる。 「よう、タイガー。この坊主は?」 「前に話したやろ? いじめられっこやったトモユキや」 「おっちゃん、こんちは」 トモユキはおずおずとあいさつする。 「なんだよ、お前も“おっちゃん”かよ」 「気にせんでええで、トモユキ。おっちゃんはおっちゃんでええねん」とトラ。 「うん、わかった。ところでトラくん、このジュースほんまにタダなん?」 トラの代わりに隆一が答える。 「あー、タダでいいよもう。どうせ、マトモな客は誰も注文しねえから放っといても腐っちまうだけだしな」 言って、ほうきを手に、カウンターから出て床掃除をはじめる。トラとトモユキ、ふたりの足元を見ると、片方だけだったり左右別々のクツではなく、ちゃんとひとそろいのクツを履いていた。いじめっこの6年生とは“ハナシ”がついたらしい。 それを見て隆一は、一杯のコーヒーが、生産者の思いが、タイガーの心を動かし、トモユキを救うことになったんだな、と納得した。やはりコーヒーが語る雄弁な無言の言葉は大人も子ども関係なく伝わるのだ、と。 隆一が悦に入っている一方でトラは、隆一に聞こえないように、トモユキに何か耳打ちしている。
「トモユキ、気つけや。ここタダでジュース飲ましてくれるけど、なんか悩んどるみたいな顔みせたら、あいつ何でか、なんのこっちゃわからんにっがい汁飲ませてきよるで」 「げっ、そうなん? わかった、覚えとくわ」 ふたりの小学生は、コーヒー屋のカウンターで、甘くてトロピカルなジュースを楽しんだ。
おわり |